【二〇一五年 杏】
だって、父さんに、悪いじゃない。
修司は、父さんを陥れた奴の息子であり、あの雅也の弟。そんな人を好きになって、愛するなんて……。
そんなこと……許されない。他の誰が許したって、私が許せなかった。
胸がぎゅっと痛んだ。
けれど、私はその痛みから目を逸らす。「私たちは、離れたほうがいい」
誰にも聞こえないように、小さくつぶやいた。
そうしなければいけない。
お互い忘れたほうが――いいんだ。そう、自分に言い聞かせた。
あふれ出す想いを押し殺す。
この気持ちを無視し続ければ、いつか消えると信じていた。そう思っていた……この時は。
【二〇二五年 杏】新と二人、アパートに戻ったころには、すっかり日が暮れていた。
時計を見ると、午後六時を過ぎている。お墓参りをすると、やはり時間も体力も奪われる。
特に今日は……やけに疲れていた。
父の墓前で、新に指摘され、
私はいつも以上に、彼のことを思い出してしまったから。「先にお風呂入るね」
「じゃあ、僕、ご飯作っておくよ」
「うん、ありがと」
私はお風呂の準備をしながら、ちらりと台所を見た。
新は慣れた手つきで野菜を切り始めている。その姿を見て、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
いつも、新にはお世話になりっぱなしだな……。
お風呂から上がった私は、髪をタオルで拭きながら部屋へと向かう。
すると、ふいに炒めた玉ねぎの甘い香りが鼻先をくすぐった。「お、この匂いは……」
私はつい台所に足を向ける。
新は、ハンバーグのタネを手でこねていた。
すでに丸められたものが皿に並んでいる。「ハ
【二〇二五年 杏】「おら、もっと嫌がれよ。でないと興奮しねえよ」 そのいやらしい笑みと視線。 私のことなど、自分を楽しませる道具としか思っていない。 本当に……こいつは。「くそっ、離せ……っ、やめろ!」「そうそう、そうこなくっちゃ」 そのときだった。 ピンポーン。 部屋のチャイムが鳴る。 間の抜けたような乾いた音が、静かな空間に響いた。 雅也は無視して続けようとする。 が、再びチャイムが鳴る。 何度も、何度も。「っうるせぇな! 誰だよ!」 苛立ちを露わにした雅也は、すぐそばに置いてあった鞄を探り、ロープを取り出した。 私は手首を縛られ、ベッドの脚に繋がれる。 口はハンカチで塞がれた。 涙目で見つめると、雅也がぎろりと睨みつけてきた。「騒ぐなよ」 そのままドアのほうへ向かって歩いていく。 しばしの間のあと、ドアが開く音。 続いて、聞き慣れた声が響いた。「杏っ!」 その声に、全身が震える。 足音がこちらに駆けてきて、その姿を現す。 修司だ。 血相を変え、荒れた息を吐きながら、一直線に私の元へ駆け寄ってくる。「杏、大丈夫か!」 修司は私の姿に痛々しそうに眉を寄せる。 そして無言のまま、すぐさま縄を解き、そっと布を外した。 呆然と、彼の顔を見つめる。「……どうして」 修司の目が私をまっすぐに捉える。「おい、修司っ! おまえ……っ」 彼の背後から、雅也が怒鳴りつける。 修司は振り返ることなく、きっぱりと言い放った。「兄さん、杏は連れて行く。……いいね?」 その顔には、見たこともないほどの静かな怒りが浮かんでいた。「っ、くそ……」 雅也は歯を食いしばり、何も言い返せず立ち尽く
【二〇二五年 杏】「おまえに何がわかる! 父さんが、私たちがいったい何をしたーっ!」 怒りに突き動かされるまま、私は雅也に飛びかかった。 そのままベッドへ押し倒し、馬乗りになって首へ手を伸ばす。「ははっ、それがおまえのしたかったことか? 本当にバカだな」 雅也は笑った。 嘲るような声。 まるで私の感情そのものを玩具にしているかのように。「おまえの親父も、おまえも、みーんなバカ。 俺に勝てるわけないだろ」 そう言った次の瞬間、雅也が勢いよく体を起こし、今度は私をベッドに押し倒した。「やめて! 何するの!」 必死に抵抗するけれど、彼の力は強くて、びくともしない。「さて、どうなると思う? 馬鹿なおまえでもわかるんじゃないか?」 顔を歪めてにやつく雅也の目が、いやらしく私の身体を這う。 ――怖い。 初めて、本当の意味で恐怖を感じた。 今更ながら、自分の行動を悔やむ。 なんで、私はこいつの誘いに乗ってしまったのだろう。 こんな男と、密室で、二人きり……。「こんなことして、今度こそ訴えてやる!」 震える声で叫ぶ。 それだけが、今の私にできる精一杯だった。「ははっ、まだそんなこと言えるのか。いいねえ、俺好みだよ」 雅也の表情が、これまでにないほどの恍惚に染まり、静かに歪んだ。「ほんと、おしいよなあ……おまえ。 ま、いいや、最後に楽しませてもらうわ」 覆いかぶさってくる雅也。「やめて! こんなことして、ただで済むと思ってるの!? 今度こそ、おまえを――」「やってみろよ。できるもんならな」 顔を近づけてくる雅也の目が、嘲りと支配に満ちていた。「おまえの父親と一緒だよ。 どんなに抗っても、俺と親父の前じゃ誰も敵わない。 皆、俺たちの思い通り。……それに、訴えられると思ってるの?」
【二〇二五年 杏】 息がかかるほどの距離に、身体が強ばる。 その顔も、吐息でさえ、嫌でたまらない。 私のすべてが、彼の存在を拒絶していた。「正直、気に入ってたんだよ。君のこと。 見た目も、雰囲気も、俺の好みでさ」 雅也は笑った。 けれど……その目は冷たく濁っていた。「ねえ」 突然、ぐっと距離を縮めてきた。 私は思わずのけぞる。 すぐそこにある顔。その唇。 雅也は、そのままふっと微笑んだ。「本当にもったいないよな。君がこんな女じゃなければ、ずっと可愛がってあげたのに」 その瞬間、雅也の笑みが、狂気を含んだものへと変わった。「でもさ――俺を騙そうとしたことは許せない」 その声は、底を這うような、恐ろしいものだった。 背筋がぞくりとし、寒気がする。「おまえ、何様のつもりだ? 俺を振って、復讐? はははっ、馬鹿じゃないの。 おまえごときに、俺が傷つくとでも思ってたのか」 顔を歪めて笑う雅也に、私は全身が粟立つのを感じた。 こいつ、狂ってる。「おまえは所詮、あいつの娘だな」 低く冷たい声音。 その「あいつ」が、誰のことを指しているのか、わかっていた。「……父のことを、あいつなんて呼ばないで」 怒りを抑えきれずに睨みつけると、雅也は目を見開き、やがて楽しそうに口角を上げた。「へえ。まだそんな余裕あるんだ? さすがだよ、ほんと」 次の瞬間、その笑みがすっと消え、視線が鋭くなる。 尖った刃のような声が、私を貫いた。「でもな、調子に乗るな。おまえなんて、俺の前じゃ何もできない。 おまえの父親みたいにな」「うるさい!! 父さんを侮辱するな! おまえのせいで……父さんは、私たちは――どれだけ苦しんだと思っている! 私は、絶対におまえも、おまえの父親も許さない!」
【二〇二五年 杏】 あの夜――あの冷たい雨に打たれて帰ってから、数日が過ぎた。 そして、私は雅也からデートに誘われた。 本当は、会いたくなんてなかった。 でも、あのとき途中で帰ってしまったことが、ずっと引っかかっていた。 電話で一応謝罪はしたけれど、それだけじゃ足りない気がしていた。 ちゃんともう一度顔を合わせ、ご機嫌を取っておいたほうがいい。 そう思って、私は誘いを受けた。 指定された店に着いたのは、午後七時。 これまで二人で飲んだのは、出会ったあのバーだけ。 でも、今日の店は初めての場所だった。 店の扉を押すと、控えめなドアベルの音が響いた。 落ち着いた照明と深い色のインテリアが目に入る。 初めて見る空間に、緊張が走る。 味方がいないこの場所で、雅也と二人きり。 自然と呼吸が浅くなるのを感じた。 気を張っていないと。 もう、あの時のように伊藤くんがそばにいるわけじゃないのだから。 中にはすでに雅也の姿があった。 私を見ると、上機嫌な様子で手を振ってくる。 テーブルの上には、いくつか飲み終えたグラスが並んでいた。 もうだいぶ飲んでる。 ……酔ってる? これはある意味、好都合かもしれない。 前回のこともあまり詮索されずに済む。 そんなふうに、油断していた。 あのとき、すでに罠は仕掛けられていたのだと、この時の私はまだ知らなかった。 軽く付き合って、早めに帰るつもりだった。 けれど、飲み始めてすぐ、強烈な睡魔が襲ってくる。 気づけば、深い眠りに落ちていた――。 目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋のベッドの上だった。「……ここ、は……?」 ぼやけた視界の中、なんとか体を起こそうとする。 その時、すぐ傍から声がした。「おや、目が覚めたかい?」 その声に顔を向けると、雅也が立っていた。 背広は脱がれ、ネクタイも外され、シャツの上のボタンがいくつか開いている。 ゆっくりと、大げさにため息をつきながら彼は言った。「君には本当に驚かされたよ。まさか、あの男の娘だったなんてね」 その瞬間、眠気が一気に吹き飛ぶ。 目を見開いた私を、雅也はくくっと笑いながら見下ろした。「もう少しで騙されるところだった。演技、なかなか上手かったよ?」 そう言って、彼はベッドの端に腰を下ろすと、ゆっ
【二〇二五年 新】 すやすやと眠る詩織さんを、そっとベッドに寝かせる。「……ごめんなさい」 謝罪の気持ちを込めて、小さくつぶやいた。 何も知らない純粋な女の子を、騙して利用するなんて。 罪悪感がないわけじゃない。 けれど、それでも。 僕には、やらなきゃならないことがある。 覚悟を決め、部屋を出た。 あの男の部屋はどこだ? いや、寝室よりも、仕事に使っている書斎の方が可能性は高い。 そう思ったとき、ふと、姉さんが偶然見つけた書斎らしき部屋を思い出す。 ……あそこだ。 直感がそう告げた。 急ぎ足で廊下を進む。 数人のメイドや執事とすれ違ったが、なんとかやり過ごしながら前へ進んだ。 広々とした廊下に、シャンデリアが煌々と光を放っている。 壁には高価そうな絵画や装飾品がずらりと並ぶ。 どこを見ても、限りなく贅沢な世界。 どうして、金持ちってこう無駄が好きなんだろう。 緊張を紛らわせるためか、 そんな考えがふと頭をよぎり、つい笑ってしまった。 目的の部屋にたどり着き、静かに扉を開ける。 中は薄暗く、人の気配はない。 そっと足を踏み入れる。 他の部屋よりはやや狭く、壁際には本棚が並んでいた。 簡素なソファと机。 そして奥にはデスク。 僕は迷わず、まっすぐにそのデスクへ向かった。 引き出しを開けようとするが――鍵がかかっている。 この中だ。 確信に近い感覚があった。 どうにか開けようと、力任せに引く。 けれど、なかなか開かない。 焦りが募る。 どうする……。 そのとき、足音が聞こえた。 扉の向こうに、人の気配。 やばい。 僕はとっさに身を潜める。 ガ
【二〇二五年 新】 姉さん、無事だろうか。 窓にふと目をやる。 街灯に照らされた雨が、しとしとと静かに降り続いていた。 雨に降られてないといいけど……そんなことばかりが頭をよぎる。 修司さんの話しぶりから察するに、姉さんはこの屋敷を出て行ったのだろう。 きっと、修司さんと何かあったんだ。 今すぐにでも追いかけていきたかった。 でも、と僕は自分を押しとどめる。 ここに来た目的を思い出せ。 詩織さんを利用して、この屋敷に潜り込む。 そして父さんの冤罪を晴らすための証拠を見つける。 それが、すべてだったはずだ。 それなのに。 こんなふうに人を騙してまでやるべきことなのか? ふと、心の奥に、小さな声が問いかける。 目的のために、月ヶ瀬家の長女、詩織さんに近づいた。 幸運にも、彼女は僕にすぐ心を許し、好意を寄せてくれた。 そして、あれよあれよという間に付き合うことに。 我ながら、プレイボーイなんじゃないか。 などと感じてしまい、自分が嫌になったりもした。 純粋な彼女の想いを利用しているようで、心苦しかった。 でも、これは仕方のないことなんだ。 そう、自分に言い聞かせる日々。 食事のあと、僕は詩織さんに連れられ、彼女の部屋へとやってきた。 二人きりで時間を過ごす。 でも、どれだけ笑顔を向けられても、心の奥ではずっと姉さんのことが引っかかっていた。 姉さん……どうしてるかな。 そんな思いに、また胸がざわめく。 ため息をついた瞬間、詩織さんがそっと寄り添ってきた。「新さん……」 身体を預けてくる彼女の温もり。 それから逃れるように、僕はわずかに距離を取った。 その途端に、詩織さんの表情が曇る。 ……本当に素直な人だ。 姉さんも、これくらい素直